「貨幣の統一」を試みた田沼意次の先見性
蔦重をめぐる人物とキーワード⑦
■バラバラだった貨幣の一本化を目指す
田沼意次(たぬまおきつぐ)の政策は、江戸時代に実施された経済政策の中でも重要なもので、のちの改革に影響を与えたといえる。
9代将軍・徳川家重(いえしげ)、10代将軍・徳川家治(いえはる)に信任された意次が老中格となったのは1769(明和6)年のこと。この前後から意次は幕府財政の立て直しを意識した政策を次々に打ち出している。そのひとつが倹約令だ。
名君と謳われる8代将軍・徳川吉宗(よしむね)の政策も質素倹約を重視したものだった。そのため意次もこれを踏襲したが、当時の不景気は深刻なもので、倹約はほとんど効果を上げることはなく、根本的な解決に程遠い結果に終わった。
状況を打開するために意次が着目したのが、貨幣政策の見直しだ。当時流通していた貨幣は、江戸では金貨、上方では銀貨が中心だった上、少額通貨である銭も使用され、さらに米も通貨と同等の価値を持ち、全国的に統一されていなかった。
一般的に、東日本では金貨を計数貨幣として用い、「両(りょう)」「分(ぶ)」「朱(しゅ)」という単位のもとで鋳造された貨幣が流通していた。一方、西日本では銀貨を秤で量って使用しており、これは秤量貨幣と呼ばれた。
このように、異なる貨幣を結びつける役割として、金貨と銀貨の交換を専門とする両替商が誕生した。それぞれ相場も頻繁に変動するため、東西をまたぐ商取引が複雑で手間のかかるものとなり、両替商の存在はなくてはならないものとなっていった。
意 次は、まず1768(明和5)年に「五匁銀(ごもんめぎん)」の流通を試みている。五匁とは重さのことで、五匁銀12枚を金1両の価値に等しくなるように設定した。これまで秤量貨幣だった銀を、計数貨幣として改めようとしたのである。
ところが、まもなくして銀の相場が下落。さらに金銀の交換レートの変動を利用して利益を得ていた両替商が、固定相場となる制度に反発したこともあり、定着しなかった。五匁銀の品位が低かったことも要因のひとつのようだ。